施設長から 親愛なるみなさまへ 次のメッセージ |
どうしても、そのひとのことを 記しておきたいのです。 初めてその人をみたのは、20年前の春、早朝散歩 (中区・根岸森林公園)を日課としていたときでした。その人は梅をみていました。つぎの日も、そのつぎの日も、また次の日も同じところで会いました。ほどなくその人は、梅林の正方形ベンチに寝泊まりする、いわゆるホームレスの人だとわかりました。 しばらくして、ベンチから立ち退きを迫られたのでしょう、すぐ近くの山桜の下に移動されました。50代後半のおだやかな顔、小柄でがっちりした肩幅、しっかりと仕事をしてきたことがうかがえるおじさんでした。 ぼくの早朝散歩はおじさんに会うことが主たる目的となりました。おじさんの後方20mのケヤキから、しばしおじさんをみるのです。おじさんは新聞を読み、空をながめていました。缶コーヒーを飲み、コンビニ弁当を食べ、ときに煙草をくゆらせていました。そしておじさんのまわりにはいつも野鳥がいました。 休日には何組もの家族がおじさんの近くで弁当をひろげ、子どもたちも遊んでいます。おじさんの様子はいつもと変りません。夕方も近くになると、次々とその人たちがいなくなり、公園は何ともいえない寂しさに包まれます。すっかり人がいなくなり、暗くなると、おじさんは早々に毛布にもぐります。 ケヤキのすぐ後ろは米軍住宅地でした。ここで時々開かれる行事やXmasはとてもにぎやかです。でも、大みそかの夜も、正月三が日もおじさんはひとりです。新聞を読むのも、空をながめるのも、缶コーヒーを飲むのも、弁当を食べるのも、病気で寝込んでも、いつもひとりです。でもおじさんを包む空気は、どういうわけか、いつもおだやかです。 ケヤキの陰からおじさんをみることを、おじさんかいなくなってしまうまでのほぼ毎日、「ケヤキ男」は、8年間も続けました。ケヤキ男はなぜそんなこと
すべてのきっかけは、森林公園・梅林の正方形ベンチに置いてあった、おじさんの所持品でした。おじさんの衣類などが入った紙袋や生活用品の所持品、これらがいつみても、実にきれいに片づけられているのです。その周辺もそうでした。何度もおじさんの所持品をみているうちに、ケヤキ男は、所持品から、なにかしら、「凛」としたものが漂っているのを感ずるようになりました。 いったいこれはなんだろう。あのおじさんっていったいどんなひとだろう。 ケヤキ男はすこしメモ魔なところがあります。でも、おじさんに関してはある夜のことを除き、一切メモっていません。どうしてかはわからないのですが、当初から、おじさんのことをメモってはいけない、のみならず、おじさんに話しかけてはいけない、人におじさんのことを話してはいけない、と思っていたのです。なんだか木下順二の『夕鶴』みたいで笑ってしまうのですが。 ケヤキ男は大阪で育ちました。大阪人特性の一つに、初対面のひとでも以前からの知り合いのごとく気軽に話しかける、というものがあります。当然ながら、ケヤキ男はこのおじさんに話しかけました。でも、たちどころに、おじさんのおだやかな横顔から、話しかけてはいけない「何か」を強く感じてしまったのです。以来、おじさんに話しかけない、メモらない、だれにも話さない、を、自らの「戒め」としたのでした。 公園で野宿をするということは大変なことです。ひどく寒いです。とても怖いです。夜の公園の寂しさはハンパではありません。何日も、何カ月も野宿をするのはほんとうに大変なことです。ましてや何年も野宿を続けることは大変なことです。それに冬の寒さは強烈です。ケヤキ男のように半時間立っているだけで、土からの寒さと、冷気でこころも体も凍ってしまいます。 春になっても夜の寒さは変わりません。暖かくなったらなったで雨が多くなります。雨の野宿はほんと泣きたくなります。いろいろな虫、蚊、ときには蛇もやってきます。暗闇で鳴く鳥たちの叫び声の不気味さといったら、それは相当なものがあります。 でも、虫や蚊、蛇や鳥などは人間の残酷さと比べたらなんでもないかもしれません。ホームレスの人が最も恐れているのは、襲ってくる人間たちでしょう。これらの物理的なつらさや恐怖に加えて、ホームレスの人にとって何よりつらいこと、それは「孤独」だと思います。 このような厳しい環境や食事のせいでしょうか、おじさんの、髪が白くなったり、背中がまるくなったり、動作が遅くなったりするのも早いようです。でもおじさんは、春夏秋冬、2年、3年と過ぎても、毎日変わらずに、新聞を読み、空をながめ、缶コーヒーを飲み、コンビニ弁当を食べ、ときには煙草をくゆらせています。 かくも厳しいというか、極限とでもいうべきか、このような日々のなかでも、おじさんとその周囲はまったく変りなく、たおやかな空気を保ちつづけているのです。いったいどうしておじさんはかくもおだやかでいられるのでしょうか。 ケヤキ男がおじさんのような状況になったらどうでしょう。おそらくケヤキ男は、一晩も耐えられずに、無残なヘナヘナ男になるでしょう。これはケヤキ男だけでなく、ほとんどの人が同じだと思います。 ある日、ケヤキ男の三つの戒め、話しかけない、メモらない、人に話さない、を、破るできごとがおきました。それはおじさんに会って3年目の2001年1月21日、日曜のことでした。 前日からの雪が降りつづき、かなりの積雪となりました。ケヤキ男もさすがにおじさんのことが心配になりました。気になって眠れないので、おじさんの所にいくことにしました。真夜中なのに、雪明かりのせいか、公園はびっくりするほど明るく、腰近くまでの雪でズボズボしながら、おじさんのいる山桜までなんとかたどり着きました。 映画『人間の条件』のラストシーンのように、おじさんの寝ているところだけ雪が大きく盛り上がっていました。雪を払いのけ、シートがみえたとき、遂に、初めて、おじさんに話しかけました。 以下は、そのときのことをメモったものです。 「ちょつとすみません」 「……」 (数回くり返す) 「大丈夫ですか?」 「大丈夫」 (全身をシートでおおっているので顔の表情は分からない) 「随分雪が降ってきたし、寒いし、もしよかったら、近くに無料宿泊所があるのですが、行きませんか?」 「いや、いいです」 「ぼくは横浜市の、社会福祉の仕事をしているものです。近くの寿町公園に、プレハブで作った宿泊所があるし、食事もありますよ」 「いや、いいです」 「そういう所はいやですか?」 「はい」 「食事はどうしていますか?」 「もう食べました」 etc… メモはこれだけです。メモをみながらこうしてPCに打ち込んでいると、あのときのことを思いだします。7〜8分ほどはなしました。なにより印象に残っているのは、おじさんの声が「きれい」だったことです。不思議ながら、想像していた声と似ていました。透きとおっているというか、このきれいな声を聞いて、おじさんは大丈夫だと確信しました。 それから数時間後、いつもの時間にいくと、おじさんは高く積もった雪に囲まれながらも、いつものように新聞を読み、缶コーヒーを飲んでいました。もちろん、おだやかな気配に包まれていました。ケヤキ男は安心して、りんごの木に出かけました。 ケヤキ男は三つの戒めのふたつを破りました。が、ほどなく三つ目の戒め、人に話してはいけない、をも、破ってしまうことになります。話した相手は中学生の長女でした。 どこの家庭でも年頃になる娘は、父に対して、これっぽっちも話さなくなるようです。御多分にもれず、ケヤキ男の場合もそうでした。雪の夜のできごとからまもなく、そんな長女が、「おとうさん、雪の夜中、どうしたの?」と聞くのです。その真剣な表情をみて、ケヤキ男は、戒めを破って話してしまいました。「わたし、そんなはなし、にがてなんだよね」といいながら、長女はぽろぽろ涙を流していました。 ケヤキ男は三つの戒めを破って気落ちしたものの、気をとりなおし、再び三つの戒を守りつつ、おじさんのところに通う日々がはじまりました。この日々は5年間続きました。 この5年間の厳しい野宿生活でおじさんは、より早く老いました。でも、新聞を読み、空をながめ、コンビニ弁当を食べ、ときに煙草をくゆらし、野鳥たちが寄り添う、そのたおやかな様子に変わりはありませんでした。 ケヤキ男のそもそもは、おじさんの所持品への興味から始まりました。でも、毎日、おじさんをみているうちに、徐々に、ケヤキ男はおじさんに敬意の念を持ちはじめるようになり、その敬意の念は日ごとに深まっていきました。いつからかは覚えていませんが、おじさんの姿をみることが、確実に、ケヤキ男にとってたいせつなエネルギー源になっていました。 おじさんのところに通う道すがら、あるいはおじさんをみているとき、にんげん、大切なことってなんだろう、と考えました。そして、あるときから「品性」がなにより大切なことだと思うようになりました。 おじさんとの別れは、突然にやってきました。 再度、戒めを守りつづけて5年目の春のことです。その日、ケヤキ男の家に集まった友人7〜8人に、どうしたことか、つい、うっかりと、おじさんのことを話してしまったのです。話したあと、戒めを破ってしまったことにいやな予感を覚えました。でも、『夕鶴』じゃあるまいし、とうそぶいて不安な気持ちをごまかしました。 翌朝、山桜のいつものところにおじさんの姿はありませんでした。おじさんの所持品もありません。公園のどこかに移動されたのかと、広い公園を探しました。数日探し回ってもおじさんの姿は見当たりませんでした。 森林公園内の管理事務所を尋ね、職員の人から、「私たちもみんな心配している。あの人はいい人だった。突然いなくなり、どうしたのかとみんなで話している」と聞きました。おじさんのことで少しでもなにかわかったら連絡をもらう約束をして管理事務所を後にしました。 あれから12年の時が流れました。 いまも管理事務所からの連絡はありません。ケヤキ男は、以前のように早朝散歩をする体力はなくなり、引っ越しを重ね、いま森林公園には月に1回程度しか行けません。行ったときには、あのケヤキから山桜をみます。そのあと、おじさんが8年間を過ごした、山桜の大きな根っこに腰をおろします。 おじさんはこの位置から、空をながめ、新聞を読み、缶コーヒーを飲み、コンビニ弁当を食べていました。ときおり、煙草をくゆらせていました。野鳥がおじさんのまわりにいました。 おじさんは何をしてきたひとなのか、なんという名前なのかなど一切はわからないままです。でもそんなことはどうでもよいことなのです。おじさんの、厳しい日々の生活から、にんげんにとって最も大切なこと、「品性」というものがなにより大切なんだよ、と、沈黙の8年間から教えてもらったように思います。 ケヤキ男は特定の宗教をもっていません。でも、古代の神々から、現代の神さま・仏さまに興味はあります。それに、舞岡の里山・里地風景を20年間みてきて、小川には小川の精が、雑木林には雑木林の精が、田畑には田畑の精がいるのではないか、と思うようになりました。 ケヤキ男にとってあのおじさんとは、神さま、仏さまだったのかな、と思っています。だから、ケヤキ男が、戒めを破って友人たちに話したことも、こうしておじさんのことを記していることも、「まっ、いっか」と許してくださると思うのです。 おしまいに 1998年、りんごの木設立の年に出会ったおじさんとの8年間は、ケヤキ男のりんごでの仕事とケヤキ男の人生にたくさんの示唆を与えてくれました。今号がりんご設立20年ということで、おじさんのことを記すことにしました。 「編集委員から」にしては長い文章になってご容赦ください。でもケヤキ男とすれば、いつ三途の川を渡るかもしれない年(64才)となり、おじさんのことはどうしても記したかったので、これで安心して棺桶に片足いれることができるわいと喜んでおります。 2017年10月29日 矢野 清 |